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【手記】成国の挑戦―遥かなる旅路 第3部

成国の挑戦―遥かなる旅路 第3部  宋恵恩訳 

 ついに母親を探し当て脱出の道を探る。それも容易ではなく、国家保衛部の監視の目を巧みにかわさなければならなかった。友が保衛部とつながっているかもしれないという疑心暗鬼、母親の友が残した娘たちも一緒に脱北しようとするが…(編集部)

 

母親は日本にいる だが保衛部の目がついている 

 父ですら母の消息を知らなかった。母とは離婚したのでもう関心がないのか。それから、機会あるごとに母と関係のありそうな人を探し、母のことを聞いて回った。しかし、母を知る人はいなかった。2011年3月17日、母のすぐ上の姉の旦那さんのお姉さんのところを訪ね、伯父の住所を聞いたところ、教えてくれなかった。 

 

 後になって分かったことだが、それは日本からの仕送りが伯父の所ではなく、実の息子である私の所にすべて行ってしまうのを恐れたためだった。物資のない北朝鮮では、肉親であっても日本からの仕送りが途絶えるのは死活問題である。どうしようもなく、住所を聞くのをあきらめた。

 

 次の日は国際女性デーであった。母は、この日をどう過ごしているだろうか。遠くにある東の太陽を眺めると自然に涙が流れた。しかしやっと、母が日本にいるということを父方の祖母から聞くことができた。その時、自分の人生の目標は母を探し出すことだと決心した。住所を聞いて必ず母を探しだす!同じ空の下生きているのなら、必ず探し出すぞ!だが実際に母親との再会をはたすまでには、さらに数年が必要だった。 

 

 2013年8月4日、母の消息を知っている親戚のソンホ伯父が訪ねてきたことによって、母親探しに一歩近付くことができた。ソンホ伯父さんは母の電話番号を知っていた。そして、母に電話しにいこうと言ってくれたのだ。私は喜んでついていった。

 

 こうして12年ぶりに母と電話越しで会った。私は家に帰ってきても、寝ることもできず、母のことばかり考えていた。母の電話番号が分かったため、私は母に会いに行く決心をした。 

 

 しかし、そんな機会がなかなか来なかった。それにどうしたらよいのか妙案が浮かばなかった。私の後ろにはいつも保衛部の目がついているような、変な感じがした。保衛部は秘密警察で、一人一人の動きを詳しく把握することを任務としていた。国家安全保衛部といういかめしい名前であると同時に、ここに監視されて、不都合なことが発見されれば厳罰が待っている。 

 

 私は出頭を命じられ、取調べを受けた。「お前の母親はどこにいるか」「最近連絡はあるのか」と質問をする。質問の様子から、彼らは母が日本にいることは掴んでいるような気がした。「知っているのなら教えて欲しい。6歳の時に別れてしまったので母の顔もはっきり思い出せない。私は母が生きているのか、死んでしまったのかも分からない」

 

 ここにいては監視の目がきつくなるだけに違いない。そうなれば、母と会う機会は無くなってしまう。2016年9月14日、私はある決心をして家を出てしまった。 

 

 義理の母は父の3番目の妻で、母の話をすると毎回悪口を言った。私はもう21歳の青年であったが、私の実母の悪口に対しては子どものように言い返した。一つ屋根の下で暮らすには、人間関係が気まずくなり、家には居づらくなった。友達のヒョソンの家で何日か過ごし、羅南にいる伯父の家に行った。 

 

母親がお前を連れに人を派遣した、だが追い返した

 羅南区域に住む伯父は、「今年7月に母がお前を連れていくために誰かを来させたみたいだけど、私がその人を追い返したよ」と言っていた。 

 

 私は母が送ってくれたお金を無駄遣いはしなかった。母が送ってくれたお金は何よりも大切なものであり、いつも無駄遣いしてはならないと考えていた。だから、自分がここを離れる時は、母の気持ちを父に託したかった。私は母のお金で家を買い、固定電話と携帯電話2台も買った。 

 

 でも、気がかりだった。2016年12月25日、私は母に電話をし、莫大なお金をくれるよう頼んだ。母も苦労して日本で生活しているだろうし、日本にいても稼いでいるわけではなかっただろうに。母にお金をくれる人もいないのに、息子が莫大なお金を要求するとは何ということか。私は電話を切ると、沢山泣いた。とてもつらかった。母の所にいくには、まだやらなければならないことがあった。 

 

 2017年1月26日、朝起きると、部屋を掃除し、遠い太陽を見つめ涙を流した。母は今なにをしているだろうか。今日は母の49回目の誕生日だからである。「お母さん!待ってて!すぐ行きますから!」 

 

 母から受け取ったお金を伯父さん(父方)に中国元で2000ウォン渡した。しかし、兄さんは、一か月のうちにそのお金を使い果たしてしまった。そのお金ならいくらでも商売をしてお金を稼ぐことが出来たのに。そのせいで伯父さんと喧嘩した。

 

母からの手紙「彼女は作らないで」 

 2017年2月3日、母から手紙をもらった。母の写真と共に…。ヒャンスク姉さんと一緒に撮った写真もあった。手紙には、母さんの知り合いのオクソンさんの娘のところに行くようにと住所が書かれてあった。

 

 2月22日、私は母の言う通りオクソンさんの娘を探しに行った。オクソンさんの夫も私を喜んで迎えてくれたし、娘のミスンとミキも私を歓迎してくれた。私も仕事をしていたので、何度も家を訪ねることはできなかった。 

 

 会計の仕事をしているおばさんが、今年は私が朝鮮人民軍に入隊しなければならない年だと教えてくれた。私はびっくりした。もう母のもとへ行く準備が出来たのに、軍隊に入ったら、全てが台無しになってしまう。軍隊に入れば8年~9年は兵役で動きが取れない。日本に行く計画も可能性も潰れてしまう。 

 

 軍隊を避けるためには方法は一つしかない。それは、鉱山で働くことである。そして2月26日、落山鉱山に行った。

 

 私が行く日、後輩や友達が見送ってくれた。母の手紙にはこんな言葉が書いてあった。「彼女をつくらないでほしい」と。確かに母も私を日本に連れていく決心をしたようだった。 

 

 母がとある人を送るのに、お金はたくさんかかっただろう。それなのに、その人を伯父が追い返したものだから、母はどれほど辛く、落胆しただろうか。母の写真をみてどれほど泣いたかわからない。 

 

 見れば見るほど、私の母はきれいである。まだ30代のような若さがある。どんどん母が恋しくなっていった。私を生んでくれたことだけでも満足なのに、私を愛し、あきらめずに私を日本に連れていこうとする母の気持ちがありがたかった。いつでも母が私を見守ってくれていると感じていた。 

 

 一度保衛部からの取調べで呼ばれた時に、「自分はまじめに、一生懸命働いて暮らしていく」と話したし、「母親には会いたいが、どこにいるのか分からない」とも答えていた。私には保衛部の監視の目がついている。だからいつでも他の人よりも目立つことは許されず、素朴に生きなければならなかったし、安心してもいられなかった。 

 

 いつも考えていたことは、安心して暮らし、安全に川を渡り、母のもとにいくことだった。 

 

母親の声を電話で聞く、でもうまく話せなかった 

 私は鉱山で働いていても、他の人より仕事を覚えるのが早かった。技術者についていってはスキルも学んだ。だが、ある日坑道が崩れたことで、2日間閉じ込められ死にそうになった。その事件以降、鉱山で働くのをやめることにした。そう簡単に死ねないからである。 

 

 鉱山をやめて、親戚の家にまず向かった。羅南の伯父さんの家に行くと、母が送ってくれた荷物が来ていると知らせてくれた。しかし私には半分も渡してくれなかった。内緒で売ってしまったのだ。 

 

 次の日、伯母の家にいくことになった。伯母の家も暮らし向きは良くなかったが、私に服や靴も買ってくれたし、私の頼みは全て聞いてくれた。ああ、ギョンヨン姉さんとイェヨン姉さんに会いたいな。伯母の旦那さんにも…。伯母たちは私に本当によくしてくれた。 

 

 今や私も決断の時である。私は最後に伯母の手伝いをしたあと、母のもとに行くことを心に決め、母に電話をしにいった。私は電話するとき、どこが安全に電話できる所か考えた。一つ場所が思い浮かびそこで電話した。

 

 母は「待ったよ」と話してくれた。母の声を聴くと、今すぐに駆けつけたい気持ちになった。母のところに行くよと伝えたかったが、我慢した。電話内容は全て盗聴されているからだ。姉さんとも電話をしたが、うまく話せなかったので、姉さんもどれほどはがゆかったただろうか。うっかり話せば、つかまって投獄されるはずだ。 

 

 母から受け取った中国元1600ウォンを伯母に渡した。離れる前に、私は友達みんなに会って、スンミの家にも行った。私はスンミに日本に行く気があるのか暗に尋ねた。彼女は何も答えなかったが、彼女の両親はここでずっと住むつもりであるようだ。そこで、私は一人で日本に行くことを決めた。 

 

友達のヒョソンは保衛部と関係があるのか 

 ある日私は偶然友達のヒョソンに会ったが、ヒョソンはなんとなく違う国に住んでいるみたいだと感じていた。それから彼は私を見て、母の所にいかないのかと聞いてきた。私は簡潔に「そんなこと考えたこともない」と答えておいた。ヒョソンが単刀直入に質問したのを見ると、彼は保衛部と関係があるように思った。 

 

 そのため、ヒョソンを探ってみたり、注意深く観察したりと彼を怪しんだが、そういう繋がりはないようだった。もし保衛部が監視をしているのなら、それは爆弾を抱えているほど気がかりなことである。とにかく、ヒョソンと行っても大丈夫そうだと感じた。 

 

 私はヒョソンと北朝鮮と中国の国境の町の会寧(フェリョン)にきのこを採りに行こうと計画を立てた。そして会寧の山奥に着いて、ここにきた本当の理由を伝えた。ヒョソンは何も言わずついてきた。そうして、私はヒョソンと一緒に国境の豆満江に向かうことになったのである。 

 

 それは2017年8月22日。私は会寧に行く数日前に父に会った。挨拶をして、会寧できのこ採りに行くことを伝えた。そして、会寧でも父に電話をした。それは最後の別れの挨拶だった。 

 

 「私はお父さんに情はありません。清津(チョンジン)にいてもお父さんは入院していたし、お酒好きでいつも酔っていました。もちろん母も16年も離れていたので情はないはずです。それでも、あなたは私の父親であり、母は私を生んでくれた母親です。私がいつも探している方が母です。離れていたときの痛みは全て忘れて、これからはずっと会いたかった母と一緒に暮らします」 

 

難関の国境の川 豆満江を渡る 

 私たちは川沿いをずっと監視したが、保衛部の警備隊は見当たらなかった。ここから対岸の中国側につくまでは慎重だった。わずかの足音も、声も聞き逃すまいと神経を集中した。 

 

 午後8時30分川岸に向かった。心臓はバクバクで鼓動が足に伝わったようでガタガタ震えた。川の水際まで来たが、何の反応もなかったので、警備隊はいないようだった。心は落ち着き意識がより鮮明になった。服を脱ぎ川に入ると、激しい水の流れを感じた。しかたなくヒョソンの手をつかみ泳いだ。

 

 しかしヒョソンは泳ぐことができず、かばんを失くしてしまった。その中には服とお金が入っていたが、まず川を渡るしかなかった。なすがまま右の方向に走った。誰もそこにはいなかった。私はかがんだ状態で振り返りヒョソンのほうをみた。しかし、どんなに探してもヒョソンは見当たらなかった。呼んでも返事がない。溺れたのだろうかと思い、向かおうとしたらヒョソンがこちらに駆けてくるのが見えた。なにかライトの光が見えたので、草むらの中で隠れていたという。 

 

 それから私たちは服を着替え、住民登録証と濡れた服を、土を掘って埋めた。中国側の国境には高く頑丈な鉄柵があり、それを乗り越えるのが大変だった。乗り越えるとすぐそこは道幅の広い道路だった。 

 

 道路にでて、お互い抱き合いながら涙を流した。母の元に向かう最難関の場所を乗り越えた喜びの涙だった。まず道路を歩いた。夜だったから歩くのが楽だった。交通監視カメラがあるので、中朝国境沿いに走る国道だった。カメラに気づくと、顔を隠して歩いた。途中とても疲れてしまい、道路に横たわってしまった。

 

 どれほど寝ただろうか。埃のにおいで目が覚めると、私の横を貨物車が通り過ぎた。わずか10センチほどの距離を残して、である。危ない瞬間であった。中国で死ぬところだった。 

 

 深夜3時ごろに山に登った。そこで、一夜を明かし朝早くから、山奥の方に歩いて行った。大分歩いたので、足には水ぶくれができ、ヒョソンの靴も破れてしまった。そんななか、私たちは3つの山を登っていった。

 

 午後2時ごろ雨が降り始めたので松の木の下に移った。そこで寝ようと、火をつけるための薪を集めてきた。しかし、山の中で寝るのはなんだか気分が乗らなかった。そこで私はヒョソンに辛くてももう少しだけ歩こうと伝えた。ヒョソンも同意した。 

 

松茸を採りに来た地元の朝鮮族に出会う

 30分ほど歩いたところ、前から人が歩いて来たので、何をしているのかと尋ねてみた。朝鮮語で、きのこを採りに来たと言ったのである。私は自分たちのことをありのまま話した。 

 

 その人は私たちの話を聞くと、ご飯を食べていないことを心配してくれた。松茸のシーズンで一緒に山に入ったもう一人の地元の人のところに連れて行ってくれた。そこには少し年老いた人が、暖かいご飯を用意してくれた。ご飯を食べたあと、私たちをバイクに乗せ、龍井(リョンジョン)市開山屯(ゲサンドゥン)というところまで連れて行ってくれた。 

 

 そして3階建てのアパートの部屋へと案内してくれた。ここは6年前に人が去ってから、ずっと空いている部屋だという。その部屋にはトイレと冷蔵庫と炊飯器といった家電製品が全部あった。ここで会った朝鮮族の人々の世話になり、タイ国のIDC(入国管理拘留センター)まで来る道が開けることになった。 

 

 山で会った人は、母との電話も繋げてくれた。そしてついに私たちは親切な朝鮮族の人たちに救われ、また一歩母親の所に近づいたのだった。 

 

 お母さんという呼び名は、ただの呼び名ではなく、子どもを包んでくれる愛を示す呼び名である。私は勇気があったから河を渡れたのではない。こんな私を愛してくれて、ずっと会いたかった母のその心が、私を母のところまで導いてくれたのである。 

 

 母はいつも私を置いて去ったことを後悔しており、自責の念に駆られていた。だからこそ、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。でももう私は誰も憎んではいない。なぜなら、偶然とは生まれる前から神様が用意してくれているものであり、生まれてからはその計画に従って人は動くからである。

 

 私と永遠に一緒に暮らすし、もうこれ以上は母から離れることはない。これからは苦労した母が笑顔あふれる人生を送れるようにサポートしていこうと思う。お母さん!心から愛しています! 

 

                        2017年9月17日 成国 

 

<注>文中の人物名は関係者の生命の安全を考慮して一部変更してあります。 (編集部) 

 

 

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