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【手記】成国の挑戦―遥かなる旅路 第1部

成国の挑戦ー遥かなる旅路 第1部                  宋恵恩訳

 1959年1214日は、「社会主義地上の楽園」の宣伝を乗せた「帰還船」の第1船が新潟港から北朝鮮に向かった日である。93340人もの在日朝鮮人、日本人配偶者が夢や希望、そして未知の国への不安などを抱いて渡った。日本人配偶者と子供たち6730人も含まれていた。当時1歳で母の背に負ぶわれていた子供は、還暦を迎える歳月が過ぎた。「楽園」への道は19847月まで続いた。大量の「帰還」の背景には、組織的な動員、宣伝の他に民族差別、将来の展望、希望のなさなど、日本社会の閉鎖性などが起因している。 

 

  ここに紹介する手記は、北朝鮮に渡った在日朝鮮人との間に咸鏡北道清津市で1995年に生まれ、辛酸をなめた日々を過ごしたのちに、北朝鮮からの脱出逃避行を果たした青年の話である。青年は、2017年以前に日本に定住した母親と16年ぶりに感激の再会を果たす。彼は将来を夢見ながら日本に到着するまでの記憶を綴っている。(原文はハングル 見出しは編集部) 

 

はじめに 

私は1995917日、北韓咸鏡道清津市新岩区域で生まれた。生まれてから5年の間、両親の温かい愛情を受け、何の心配事もなく、幸せに育った。私は他の子と同じように、親が手を焼くような子であり、やんちゃな子であった。よく笑い、よく泣き、母から少しも離れることがなかった。しかし、そんな幸せな時間を私から奪う出来事が起きる。それは、両親の離婚である。理由は分からないが、この2文字の出来事によって私は両親と離れ離れになり、16年もの間、暗黒期を過ごすことになった。16年である! 

 

 

 

 

 人生で一番大切な思い出は幼い頃にあると思う。 16年もの歳月は、きれいな虹のような思い出にはならず、暗黒の日々であり、地獄のような苦痛な時間でしかなかった。

 

6歳で母親と離別するまで

 6歳の子供なら、普通愛嬌もあり、駄々をこねるような年齢でもある。しかし、私の幼少期は寝床についてもいきなり目が覚めてしまうほど、怖く辛い日々を過ごした。 

今日は記憶をたどりながら、その話をしようと思う。忘れたくても忘れられない幼少期の「美しい思い出」を…。 

 

母の手をつかみ、どこかに向かっていた。どこに向かって歩いているのだろうか。当時5歳であったが、今でもその時のことを覚えている。母は父と離婚したのち、私を羅南地域にある母方のおじの家に連れて行こうとしていたのだ。私はいつも母から離れる事がなかったため、その時も黙って母について歩いていた。母は祖母の家に私を預けたり、おじの家に預けたりして、働きに出かけていた。母がいないといつも泣いていたという。寝るときはいつも母の手首をつかみ、どこかへ行くときはいつも母と一緒に行くと駄々をこねていた…。母がいないときは目が腫れるほど沢山泣いていたが、母が帰ってくるとその涙が嘘だったかのように、いつの間にか気分が晴れ笑顔になっていた。

 

そんなこんなで1年が経った。日増しに暮らしは厳しくなり、私の身体も弱まっていた。そこで母は考えた末に、私をおじの家に預けて、私の元から去ってしまった。その日を境に、忘れられない幼少期が始まったのだ。涙と苦痛が続く日々が…。と同時に、私がたくましく育てられた日々でもあった。

 

母方の祖母から父の家に そして父方の祖母の家に 

2001年、6歳の時母が離れたあと、母方の祖母は私を父のところに送った。後になって聞いた話だが、母は私を残して去る時に沢山涙を流したという。母にとって幼い私を残して去ることはとても辛いことであり、涙が止まらなかったそうだ。その時の母の気持ちがどれほど辛いものであっただろうか。祖母も私を父のところに預けて去ってしまった。

 

父は私を沢山可愛がってくれた。生まれてから5年間暮らし、住み慣れた家だった。幼少期の思い出が詰まった家に入った途端、涙が出た。以前は外で遊んで帰ってくるといつも母が迎え入れてくれたのに、今はその母がいない。再び涙が雨粒のように滴り落ちた。そのとき、外から私を呼ぶ女性の声が聞こえた。私はもしかしたら母かもしれないと思い、涙を拭き見ると、その女性は新しいお母さんだという。 父は母と離婚したあと、再婚したのであった。私は切なくなり、再び涙を流した。それほど涙もろかった。

 

風呂を終え、ご飯を食べていると、今度は聞き覚えのある声が聞こえた。私は箸をとめ、固まってしまった。父方の祖母がいたからである。父方の祖母は私をひどく嫌っており、私は祖母をかなり怖がっていた。祖母は実の孫に会うために来たのではなく、母のいない私をもっと苦しませるために来たのである。私はまだ疑問が解けないでいる。なぜ祖母がそこまで私を嫌っていたのか? 祖母は私を自分の家に連れて行くためにやってきたのだった。私はわけもわからず、祖母に悪口を言われた。罰として狭い部屋に閉じ込められたりもした…。

 

夜寝ていると、腹違いの兄を含め(腹違いの兄、つまり私の母が2番目の奥さんであった。私は父と母との間に生まれた一人息子である。)私以外の家族は、皆でスイカ、チャメ(瓜)、バナナといった果物を食べていることが多かった。祖母の家では、いつも祖母の目を気にしながら生活し、ご飯を遅く食べただけでも叱られた。そのときから、私には笑顔が消え、いつも陰に隠れながら生きるようになった。

 

祖母は私を養子に出した 

 そんな200112月のある日旧正月の季節となり、父がやってきた。父は私を見ると、間違いなく私を連れて帰るはずだと思っていた。しかし、父方の祖母はそのような希望さえも奪った。祖母は、新年を迎える数日前に、私を養子として見知らぬ家に送ったのである。それも子どもが2人もいる家に…。1人は私よりも1歳年上のお兄さんで、もう1人は私より2歳年下の妹だった。 

 

 祖母は私をその家に連れていった。そして、その家の人たちと一言二言の言葉を交わしたのち、見向きもせずさっさと行ってしまった。次の日の朝になって、自分がこの家の養子になったのが半信半疑だったが、やはり間違いのない現実だと身に染みて分かることになった。これで私をいじめる祖母の手から離れたと思うと、これからは安心して暮らせると思った。私には母も父もいるのに、孤児になったのだ。

 

 その日、朝ごはんを食べ、養父母の家族と一緒に駅に向かった。養父は軍人であったため、江原道伊川郡という新しい任地に引っ越すのだという。列車に乗ると母の姿が思い出され、涙がこぼれた。もしかして母が私を連れに走って来てくれないだろうか。母は今どこにいるのだろうか。なぜこんなに月日が経ったのに連絡一つないのだろうか。待っても待っても母の姿は見えなかった。

 

 出発進行!汽笛の音が響く。このようにして、父や何の音沙汰もなくなってしまった母を置いて、誰の見送りもないまま、住み慣れた故郷をひそかに離れたのであった。

 

 

 

金ナムチョルとの闘い

  ある日私たちはボールで遊んでいたが、ナムス一人だけが遠くで遊んでいる様子が見えた。彼とケンカはしたものの、なんだか可哀そうに見えてきた。私は彼のもとに行き、もうケンカはやめて仲良くなろうと伝え、手を差し出した。私たちはこの日を境に仲良くなった。このようにして新しい人生が始まった。私たちは数日間の鉄道での移動で様々な苦労した末に、目的地にたどり着いた。名節を迎え、私はインチャ幼稚園に通った。また学校にも入学した。入学してからは、よく勉強ができた。  

 

 私が2年生になる年に、またもや養父が江原道平康郡鴨洞里という地域に派遣され、引っ越しをすることになった。ここの家の家計は苦しく、食事ができないことなんて日常茶飯事であった。そんな状況にいたため、学校に通うのも簡単なことではなかった。私はクラスの中で成績は一番よく、学級委員長も務めた。毎年行われる学科コンクール(学科競演)にも参加し、表彰状ももらった。 

 

 

 ある時、先輩が私を見て、「親のいない野郎」とからかいもした。そこで私は憤り、その場で我慢もできずに先輩を殴ってしまった。そうしたら、周りの上級生たちが私に殴りかかってきた。その日は怒りが夜通し収まらず、寝ることができなかった。家では一言も言葉は発さない。私はその日を境に、家の後ろにある杏の木に肥料袋をぶらさげて、朝晩叩き続けた。何か月も特訓をしたため、強くなった気がした。手全体にたこも出来た。それでもずっと特訓した。 

 

 そんなある日、勉強をしていると、クラスの不良者“キム・ナムス”という奴が、私のところにやって来た。彼は黙って私の頭をトントンとたたいてきた。彼の兄さんは“キム・ナムチョル”といい、上級生の中でも暴れん坊で有名であった。キム・ナムチョルという名前を知らないものは誰もいない。私のクラスにはナムチョルの弟がいて、自分がなんでも一番といった態度だった。私のクラスメートもみんな彼を嫌がり、怖がっていた。ナムスの兄はもっと怖く、誰かを殴ってもなにも言い返すことができないほどである。

 

 だがその日はとうとう我慢できず、ナムスの顔面をぶん殴ってやった。すると、かれは泣きじゃくり、自分の兄のもとに駆けていった。他のクラスメートは怖がり、早く逃げようと言ったが、私は、どうでもいい、来るなら来い、と言った。そうこうしているうちに、兄が駆けつけてきた。休み時間だったため、先生はいない。ナムチョルは、私の首根っこをつかんで殴ろうとした。私もじっとしているわけにはいかず、イスを持ち上げ振り回した。私は鼻から血を流し、ナムチョルも唇に怪我をした。 

 

 しばらく殴り合いが続いたあと、担任の先生が入ってきた。先生は、ナムチョルに対して、年下とケンカをするなんてみっともないことだ、と叱りつけた。その事件を機に、上級生の先輩たちが私をからかうことはなくなり、クラスメートとはより親しくなった。

 

 

生活が厳しく学校に通えない 成績優秀者から脱落

10歳になった2005年頃から学校にちゃんと通えなくなった。生活が厳しくなり、農作業を始めたからである。学校に通わなくなったため、勉強にもついていけず当然成績優秀者から外れた。

 

学校に通いながら一番悲しかったの は運動会の時である。他の友達は勝っても負けても、親と一緒に楽しんでいるのに、それを見るたびに母が恋しかったし、友達羨ましく感じた。友達がいるところで泣くのはみっともないと思ったから、学習室に行き一人で泣いた。そんな時に私を励まし、勇気づけてくれた人がいる。それは、担任の先生であった。先生はどんな時も、委縮せず強く生きなければならないと私を励ましてくれた。 

 

運動会後の食事時間も、周りの友達は白米に何種類ものおかずがあったが、私は冷えた固いトウモロコシご飯に、おかずもせいぜい卵くらいであった。弁当箱を開けず、外に出て、養父の息子 である兄さんの教室を眺めていた。兄さんの笑ったからは、見るからにおいしい弁当がこしらえてある様子が想像できた。 

 

それからというもの、学校には行きづらさを感じ、ついには働くばかりで学校には行けなくなった。12歳のときは校門すらも入ることなく、一年中働いていた。冬は木の伐採に勤しんだ。私は背も低ければ、身体も弱く、手も小さかった。こんなにも一生懸命働いていても、満足できるほどの薪を作れず、不平不満、小言を言われた。「朝起きるのも遅いし、怠け者だし…」

 

兄さんも身体が弱く、妹も女の子だからといって、仕事をそんなにさせなかった。そういうわけで、私はとうとうこの家の召使いになってしまった。そんなときも、それでもいつかは必ず実の両親を探しにいってやるとひそかに目論んでいた。 

 

誕生日を祝われたこともなく、服も兄さんのサイズの大きい古びた服しか着なかった。そんななかでも、私を勇気づけてくれた言葉がある。それは、私が幼少期に読んだ本にある言葉だ。「生きなければならない理由がある人は、どんな困難も乗り越えられる」というものであった。とても辛かったが、幼少期のかすかな母の姿をたどることで、元気になれた。 (第2部へと続く)

 

<注>文中の人物名は関係者の生命の安全を考慮して一部変更してあります。 (編集部) 

 

 

 

 

 

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