本格的な衝突の前触れ
ウクライナでは2014年、親露派のヤヌコビッチ政権が倒され、親EU(欧州連合)のマイダン革命がおこった。しかし、2月に南部のクリミアで、3月には東部のドネツィク州・ルハーンシク州(ドンバス地域)で、ロシアを後ろ盾とする親露派の反政府分離主義グループの同時抗議が武力衝突に発展し、クリミアをロシアが併合し、東部ドンバスは親露派が占拠した。
反対に、5月に親ロシア派住民が立てこもった労働組合の建物がウクライナ民族主義の右派過激派に放火され、46人が死亡、200人以上が負傷するという「オデーサの惨劇」が起こった。ロシア側はこれをネオナチと規定し、その後、ウクライナ政権と武力衝突を繰り返しているのは、ご承知のとおりである。
「特別軍事作戦」の始まり
2022年2月24日、ついにロシアのプーチン政権は「ウクライナのネオナチに虐待されているロシア系住民を救援し、平和維持のため」の「特別軍事作戦」という名のウクライナ全土への侵略が、北京冬季オリンピック終了後にはじまったのである。
当初、ロシア軍はベラルーシ国境を越え、ウクライナ北部から首都キーウ陥落を、東部のドンバスから東部2州の完全併合を、南部はクリミアから黒海沿岸地域の占領を目指し三方向から全面侵攻を開始した。しかし、ウクライナ軍は激しく抵抗し、ゼレンスキー大統領の支援要請による西側諸国からの武器支援効果もあって、北部キーウ州周辺を奪還した。その過程でブチャ、ボロジャンカ等でロシア軍による民間人への暴行、レイプ、虐殺、略奪の状況が白日の下にさらされた。また、病院、学校、インフラ、軍事施設ではない民間人の住宅への無差別爆撃もSNS、テレビニュースで私たちも見ることになった。これらは戦争犯罪である。
ウクライナの成り立ちとルーシ(ロシア)
ウクライナはロシア平原の南、ドニェプル川流域から黒海の北岸、クリミア半島を含む広大で豊かな黒土の穀倉地帯である。
紀元前750年頃、黒海北岸からカスピ海北岸の広大な草原には、イラン系と思われるスキタイ人が移り住み、鉄器を使用する騎馬遊牧生活を送っていた。この草原の道(ステップ=ロード)は東西交易のルートの一つとなっていた。
1世紀のなかば頃、フン人(匈奴)が中央アジアから西に向かって移動し、それに押されて、3世紀ごろには草原の西にいた東ゴート人などのゲルマン人が移動を開始。結果的に東ゴート人によってスキタイは滅亡した。
ゲルマン人と同じインド=ヨーロッパ語族に属するスラヴ人は、この草原の北のドニェプル川上・中流を中心としたロシア平原西部一帯のポリーシャ(北ウクライナ、南ベラルーシ、東ポーランドと西ロシアの間に位置する歴史地名)で狩猟・農耕生活を行っていた。
9世紀にスカンジナヴィア東側、現在のスウェーデン(ポーランドのポメラニア付近ともいわれている)にいたノルマン人の一部のルーシ(ノルマン人の一部をスラヴ人がこう呼んだ)が、バルト海を渡ってスラヴ人地域(黒海の北岸)に移住し、スラヴ民族と同化しながらノヴゴロド国、ついでキエフ公国を築き、これが統一されてキエフ公国(キーフ=ルーシ)となった。これがロシアの起源と言われる。このキエフ公国の下で、ウクライナ人(小ロシア人)、ロシア人(大ロシア人)、ベラルーシ人(白ロシア人)に分化したとされている。
このように、ウクライナ人は長い歴史の中で、ゴート人、ノルマン人、スキタイ人そして東スラヴ人との混血によって形成された民族集団である。
やがてキエフ公国は13世紀初めにモンゴル帝国の侵入を受けて1240年に滅び、「タタールのくびき」と呼ばれたキプチャク=ハン国の支配が1480年まで続いた。
この後、ルーシ国家の中心はモスクワに移ることになった。ウクライナは東スラヴの本家筋だったのだが、モンゴルの侵攻などでキエフ公国が衰退し、いわば分家筋のモスクワ大公国が台頭し、スラヴの中心とルーシ(ロシア)の名前はそちらに取られてしまった。
14世紀には北方からリトアニア大公国とポーランド王国がウクライナ北部に勢力を伸ばし、両国は同君連合のリトアニア=ポーランド王国となった後、16世紀にはポーランド王国に統合され、ウクライナ北部はその支配を受けた。
ウクライナ・コサックの出現と独立の動き
しかし、14世紀から15世紀には、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)の士・豪族のうち、この地を支配したリトアニア大公国から貴族としての権利が認められなかった者が少なからずいた。その子孫を中心とする人々がコサック団隊としてウクライナのドニェプル川中下流域のステップ地帯でザポリージャン・シーチ(政治、軍事拠点の要塞)を形成し、急速に黒海に面した南ウクライナの南ブーフ川とドニエストル川の間の領地にまで拡大し、「コサック共和国」とも呼ばれた半自治的な原始国家が100年以上にわたって存在した。
やがて、17世紀頃からウクライナ・コサックとして独立の動きが強まったが、第1~3次露土(ロシア帝国とオスマン帝国)戦争で介入したロシアがクリミアを拠点に勢力を伸ばし、18世紀にウクライナ全土を支配するようになった。それ以後、ウクライナのロシア化が強まり、ソ連邦による支配に継承されたが、1991年のソ連邦解体後、ウクライナ共和国として独立した。
ルースキー・ミール(ロシア世界)とノヴォロシア(新しいロシア)の失地回復
モスクワ総主教キリル1世は「ロシア世界」を「東方正教会、ロシア文化、そして特に言語と共通の歴史的記憶という3つの柱で見出され、さらなる社会的発展に関する共通の理想像と結び付いている共通の文明空間」と定義し、「ウクライナは我々の教会の辺境にあるのではない。我々はキエフを『全てのロシアの都市の母』と呼ぶ。ロシア正教はそこで始まった。したがってどのような状況の下においても我々はこの歴史的および精神的つながりを捨て去ることはできない。我々の教会の全体統一性はこれらの精神的連帯に基づいている」と表明した。
つまり、ロシア語を話す人やロシア正教会を信じる人などが住む地域は「ロシアの世界」であり、ウクライナ人やベラルーシ人は人種・言語・文化など多くの点でロシア人と似通っており、「我々と同じ」であり、ソ連邦解体によって新たに出現した国境線の外にも、ロシアの領域と文明があるというイデオロギーである。
また、プーチン大統領は歴史的妄想のように、ノヴォロシア(新しいロシア)の失地回復を盛んに主張している。
現在のウクライナと周辺諸国
ノヴォロシアとは18世紀末にロシア帝国が征服した黒海北岸部地域を指す歴史的な地域名で、ザポリージャのシーチの南部の「コサック共和国」、そしてザポリージャとそれ以前にオスマン(トルコ)帝国とクリミア・ハン国が数世紀にわたり支配してきた黒海北岸との間の大草原が含まれる。
具体的にはウクライナのドネツィク州、ルハーンシク州、 ドニプロペトロウシク州、ザポリージャ州、ムィコラーイウ州、ヘルソン州、オデーサ州とクリミア自治共和国、セヴァストポリ、及びロシアのクラスノダール地方、ロストフ州とアディゲ共和国、モルドヴァを指している。
それゆえに、プーチン大統領とキリル総主教の頭の中では、れっきとした主権国家であるウクライナは「国外」ではなく「国内」であり、このイデオロギーをウクライナ侵略の正当化に利用している。これは帝国主義であり、ほぼファシズムと言ってもいいだろう。
人権人道侵害を許さず、責任追及が必要
5月2日現在、すでに68日間で多くの難民が発生している。ポーランドに308万人弱、ルーマニア84万人弱、ハンガリー53万人強、モルドヴァ45万人弱、スロバキア38万人強、ロシアへも68万人強と世界各国に、そしてウクライナ国内難民も合わせると膨大な人数になるだろう。
一方、ロシア軍に「救援された」とされる孤児を含んだ多くのウクライナの市民に、選別収容所で暴力を伴う厳しい尋問、選別が行われ、反ロシアの市民がひそかに処刑されたり、ロシアの遠隔地に移送されたりしているとも言われている。今後、国際機関も交えて、これらの戦争犯罪に精緻な調査が行われ、速やかな原状回復がなされる事が望まれる。
また市民や民間施設への無差別攻撃による死傷者、戦闘によるロシアとウクライナの両軍兵士の死傷者数も計り知れない。速やかなロシア軍の撤退を望むが、戦いは長引くかもしれない。