6月20日は「世界難民の日」。ぜひ知ってほしい、難民のこと◆アーカイブ◆北朝鮮に帰った「在
日」はどのように生き、死んだのか(2)親族脱北して戸惑う「在日」(石丸次郎)2016/11/28
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アジアプレスインターナショナル 石丸次郎 2016.11.28
◆「家族を脱北させたいので助けて」
北朝鮮による突然の核実験から間もない2016年1月中旬。韓国から聞き覚えの無い男性の声で電話がかかって来た。自分は数年前に韓国に来た脱北者で、北朝鮮に残してきた家族を何とかして探して連れて来たい。ついては手助けをしてほしい、と言うのだった。私の連絡先は脱北者の知人から聞いたという。
このような「離散家族探し」、「脱北幇助」を頼まれることが、年に何回かある。だが、私は一介のフリージャーナリストにすぎず、そんな力もないし、もちろん金もない。どこかの筋の「引っ掛け」かもしれないという警戒もあって、このような連絡がある度に憂鬱になる。だが、連絡してくる人たちは藁にもすがる思いに違いないので、無下に断るわけにもいかない。
その男性には、金正恩政権になって中国との国境警備が格段に強化されて、脱北も以前とは比較にならないぐらい困難になっており、とても私などの手に負えない、韓国の脱北者支援団体に相談してみてはどうですか、と助言した。その男性はしばしの沈黙の後、こう言った。
「私は〇〇県から朝鮮に渡った帰国者なんです。娘をどうしても連れてきたい。何とかならな
いでしょうか?」
北朝鮮関連のニュースが流れない日はないが、帰国事業、帰国者のことについては、報道されることも、「在日」の知人、友人たちと会っていて話の端に上ることもめっきり少なくなってしまった。帰国事業開始から56年が経ち、「遠い過去の出来事」と捉えられるのも無理はない。世代交代によって、帰国した人たちと日本に残った「在日」の間の繋がりも希薄、疎遠になってしまった。
朝鮮問題に関わってきた人や「在日」が書いたり話したりする帰国者のことも、遠い昔の思い出や、親族、知人が音信不通だという程度の、どこか他人事である(映画監督のヤン・ヨンヒが人生をかけて、帰国した兄家族のことを描き続けているのを除けば)。
日本社会、「在日」が帰国者に対する関心を薄れさせているのは、彼/彼女たちの姿が「匿されて見えない」ことが大きいと私は考えている。帰国者が北朝鮮でどう生きたのか、どう死んだのかが日本に伝わっておらず、その存在や死に実感が持てないからだと思うのだ。
この18年間に中国などで会った帰国者のことを書きたいと思う。
◆在日帰国者が飢民となって中国に
筆者は1962年生まれ。「在日」の北朝鮮帰国が絶頂だった当時の社会の雰囲気も、朝鮮人が置かれていた厳しい暮らしぶりも知らなかった。「在日」が北朝鮮に大挙渡った時代について知ったのは、帰国事業終焉間際の80年代前半、大学生になってからである。
祖国訪問で北朝鮮を訪れた「在日」の口から、少しずつ北朝鮮体制の異常さや、帰国した親族たちの不遇が語られ始めた頃だが、韓国政権の謀略情報の類だろうと考えていた。要するに、北朝鮮こも、帰国者のことも何もわかっていなかったのである。
93年夏に初めて朝中国境に取材に行って以来、私は北朝鮮国内に三度入った他、ずっと朝中国境地帯に通い、合法・非合法に中国に出て来た北朝鮮の人々と会う取材を続けている。その数は1000人近くになる。
このように北朝鮮取材にどっぷり浸かることになったのは、97年の夏の国境取材の衝撃がきっかけだった。豆満江を挟んで北朝鮮と接する吉林省の延辺朝鮮族自治州に、凄まじい数の北朝鮮の飢民が押し寄せていた。国境沿いの朝鮮族の村々は、どこも毎晩数十人ずつが越境して来る有り様で、筆者は中国公安の目を避けながら、それこそ手当たり次第に越境者たちに会って話を聞かせてもらった。
北部の咸鏡南北道、両江道の人が大部分であったが、少数ながら、平壌や黄海南道の人もいた。市場や駅にごろごろ死体があるという身の毛のよだつような飢餓体験はほぼ共通で、この時期、北朝鮮に地獄図が広がっていたのは間違いにないと確信した。
この時の取材で会った越境者に、帰国者に言及する男性がいた。咸鏡北道化城(ファソン)郡から来た果樹園労働者だった。
「二月ごろ、私の村に帰国者の老母と娘が流れ着くようにやってきました。雪が積もっているのに二人とも靴もなくて、縄と布で足をぐるぐるに巻いていました。村の空き家に入りこんで家々を回って食べ物を乞うていました。けれど私たちも食べ物がなくて飢え死にする者が出ているのに、あげられるものなんて何もない。
間もなく、まず娘のほうが死んでしまいました。それから私も中国に逃げてきたので母親のアメ(おばあさん)がどうなったのかわからないけれど、もう生きているとは思えませんね。帰国者には金持ちもいるけれど、日本から送金のない人たちは悲惨でした。もともと北朝鮮に親戚もいないから、コチェビ(浮浪者)になるしかない。『コジッポ』なんて呼ばれていました」。
彼の言う「コジッポ」とは「コジ(乞食)のクィグクドンポ(帰国同胞)」という意味の侮蔑語である。その男性の証言を聞いた私は、延辺に流入する北朝鮮飢民の群れの中に帰国者もいるだろうし、いずれ必ず出会うことになるだろう、そう予感した。
翌98年の夏、豆満江上流の和龍県芦果村の取材拠点にさせてもらっていた農家を訪れると、前夜に越境してきたという若い女性がいた。彼女は両親が福岡県出身で、親戚の電話番号を持っていた。日本語ができない彼女に代わって私が福岡の親戚宅に電話を入れた。たまたま受話器を取ったのが母親の姉だった。突然の中国からの電話に絶句した後、「何とかするから、中国で静かに待っているように」と言った。受話器の向こうからは、驚きとともに、どうすればよいのかわからないという当惑がありありと感じられた。
芦果村で会ったこの女性の両親、つまり元「在日」の父母は、父親が97年に飢えで死亡、母親と弟が北朝鮮で、中国に越境した自分の帰りを待っているとのことだった。別れ際に彼女が私に向かって放った言葉にたじろいだ。
「いったん北朝鮮に戻り、母と弟を連れてまた中国に出てきます。何とか日本に連れていってもらえませんか?」
※在日総合雑誌「抗路」第二号に書いた拙稿「北朝鮮に帰った人々の匿されし生と死」に加筆修
正したものです。
北朝鮮に帰った「在日」はどのように生き、死んだのか(2)
親族脱北して戸惑う「在日」
◆アパッチという侮蔑語使った帰国二世
1998年夏に福岡出身の帰国者を母親に持つ女性と出会った頃から、取材に応じてくれる北朝鮮の越境者の中に帰国者がぽつぽつと混じり始めた。また、知り合いの「在日」のもとに、中国に脱北した親族から手紙や電話が届き、「中国に通っているなら一度会って来てほしい」と頼まれることがあった。
関西のある「在日」のボクシング関係者から、従妹を名乗る人物から送られて来た手紙を見せられた。朝鮮から逃げて来た、助けて欲しいという内容で、中国吉林省の延辺の消印だった。手紙には、彼が赤ん坊を抱っこしている写真が同封されていた。
「1980年に祖国訪問で北朝鮮に行ったときに撮った写真です。あの時の四寸妹(従妹)が難民になるなんて夢にも思わなかった」。
手紙には次のように書かれていた。
「帰国者たちはかわいそうです。ウォンジュミン(原住民)たちは親戚も多くて食べていけるけれど、私たち帰国者は今やウォンジュミンより酷い。なぜ、両親は豊かな日本から貧しい朝鮮に帰ったのでしょうか? 私は貧しい朝鮮に生まれたことを天に向かって呪いたい」。
手紙を送って来た李スギョンさんはこの時19歳。日本語はできないし日本のことも知らない北朝鮮で生まれた「帰国二世」だ。後に中国で会った時、彼女と妹が北朝鮮現地の人のことを「ゲンチャン」「ゲンゴロー」「アパッチ」と呼び、自らを「ウリキグッチャ子女(私たち帰国者子女)」と称したことはショックであった。
「アパッチ」とは何か? 帰国船が盛んに往来していた60年代の北朝鮮では、多くの若い女性が長い髪を三つ編みにしていたというのだが、帰国者たちは、その姿を米国の西部劇映画の中で「野蛮人」として描かれていたネイティブアメリカンにだぶらせて隠語にしていたのだった。帰国者たちが現地の人々を野卑に感じていたことを想像させる嫌な言葉だ。
この時すでに帰国事業開始から40年が経っていたのに、帰国者たちの問で、なお同族を蔑むような隠語が日常的に使われていたわけだ。両親の影響があったのだろうが、「帰国二世」の代に至っても、帰国者と現地住民とのわだかまりが溶解していないことが想像された。
◆「在日」の親族に助け請う帰国者難民
朝鮮総連の専従活動家の知人から相談を受けたこともあった。親戚が中国に越境して助けを求めて来ている。お金を送るから北朝鮮に戻るように言ったが、「日本に連れて行ってくれ」の一点張りだ。そんなに北は悪いのか? と。
逆に、中国で出会った帰国者難民たちから、日本の親族探しを頼まれることも多くなった。手紙が来なくなって何年にもなる。すがることができるのは日本の親兄弟姉妹しかいない。現在の電話番号を調べてほしい、少額でもいいから支援してくれるよう伝えてほしい、と頼まれるのだ。
99年に会った咸鏡北道の会寧(フェリョン)市から中国に越境して来ていた60代後半の女性は、大阪西成の出身だった。姉から時々荷物やお金の支援を受けていたが、もう十年近く音信がないという。「姉を探してなんとか最後に一度だけ助けてほしいと伝えてください。朝鮮にいる子供たちの家族が飢えているんです」
淀みない大阪言葉で、そう言った。
教えられた住所を訪ねた。長屋風の小さな一軒家。老夫婦が出てきた。不意に来訪した人間から、肉親が中国に難民となって出て来たと聞いて驚かないはずがない。
夫は「朝鮮で飢え死にが出ているなんて嘘や。でたらめを言わんといてくれ」と、けんもほろろである。夫が奥に引っ込んだ後、妻が言った。「兄ちゃんありがとうな。主人は総連の支部の仕事を長くやってたからマスコミが言うてること信じてへんねん。見ての通り、うちらも生活苦しいから大したことでけへん。妹にこれ渡して」
茶封筒に二万円を入れて私に託した。
中国で知らされた番号に電話を入れたところ、「あんたたちが、朝鮮がいい所だと言って送ったんだから、あんたたちが面倒見ろ」と言われて電話を切られたこともあった。総連の活動家と勘違いされたようだった。
ある地方都市の「在日」家族を訪ねた時のことだ。中国に逃れて来ていた帰国者の姉に当たる人が在宅していた。手紙を差し出しおそるおそる用件を伝えると、その女性はみるみる表情を険しくさせ、激しい言葉を発した。
「弟の一家とは関わらないでください。弟はもういないもの、死んだものと思ってるんです。やれることは何もないんです。お願いですから放っといてください」
取りつく島の無い拒否反応。吐き捨てるような言葉遣いだったが、彼女の表情には、腹立たしさと自分にはどうしようもないという無力感が入り交じっているように見えた。
北朝鮮に帰った「在日」はどのように生き、死んだのか(3) 2016.11.29
帰国者の「死に様」を聞く
1999年夏、先述したボクシング関係者の親族と延吉市で会った。岡山出身の李昌成(リ・チャンソン)さんと福岡出身の金綾子(キム・ルンジャ)さん夫婦、それに娘のスギョン(当時19歳)、スミ(当時16歳)の四人で、同情を寄せる中国朝鮮族に匿われて一年が経っていた。
その朝鮮族は、食べて寝るだけの四人の面倒を見るのにほとほと疲れていた。私は、朝中国境取材のために延吉市内に借りていたアパートに彼らを迎えることにした。日本に戻っている間はどうせ空き家になるし、この一家と同居してじっくり帰国者たちの生き様を聞きたいと思ったのである。
この時期、大勢の帰国者が中国に逃げ込んでいたはずである。私が直接会った人をざっと挙げると、平壌から単身逃げて来た東京出身の男性、鳥取米子出身の父娘、福岡出身の女性、大阪西成出身の女性、茨城県出身の母娘らがいた。延辺や黒龍江省の農村で話を聞かせてもらった。
彼/彼女らの体験は、日本で出版されたいくつかの手記と共通している部分が多かった。例えば、新潟から出た帰国船が清津港に到着した時の失望、乏しい食糧配給に帰国間もなくからひもじい思いをしたこと、日本から来た異分子として監視と差別に晒されたこと、失言や振る舞いから政治犯収容所に送られた帰国者が少なくなかったこと、などである。
帰国者の手記本の内容が決して的外れでも、特殊な体験でもないことが分かった。一方、彼/彼女らは、私のまったく知らない帰国者の生き様、死に様について話してくれた。おそらく誰にも話したことのなかった「身世打令」(シンセタリョン)。そのうちの一部を紹介したい。
◆清津市の帰国者に餓死多発
前出の李昌成さん、金綾子さんの家族は咸鏡北道清津(チョンジン)市の羅南(ラナム)区域に暮らしていた。清津は、平壌、元山と並んで帰国者が大勢住む地域である。金綾子さんは61年に帰国してからずっと清津の近くに住んでいたため、40年来の帰国者の知人が大勢いた。
特に40~50年生まれの世代は、高度成長期の入り口にあった日本で青春の真っただ中を送ったこと、朝鮮語習得の苦労、軍隊や警察に配置されないなどの帰国者差別を共通して体験し、仲間意識が強かったようだ。清津の帰国者が90年代末の飢饉の中で次々と死んでいったことを、綾子さんは次のように証言した。
「清津の帰国者は本当にたくさん死にましたよ。帰国者仲間からブンちゃんと呼ばれていた兄さんがいてね、喧嘩は強いし、男前だし、女の子の憧れだった。日本から仕送りもあってはぶりも良かった。それが、いつしか止まり、痩せてしょぼくれたオヤジになっていったんだけど、帰国者同士で集まると、『俺たちは腐っても帰国者だ。自尊心失わず生きて行こう』なんて言うてたよ。
『苦難の行軍』になって飢え死にがいっぱい出始めた時、ブンちゃんの家に寄ったら、何にも食べ物がなくて、痩せに痩せててね。パンを食べさせたら喜んで『ルンジャ、俺が死んだら、日本の見える海沿いに埋めてくれよな』と言うてました。
その数日後に死んだんで仲間で海の見える山に埋めましたよ。
東京から来た「ジャック」と呼ばれていた帰国者はお腹がペッタンコになって最後は『ぜんざいが食べたい』と言うて死んだ。「オバケ」というあだ名の姉さんは、大阪で総連の仕事をしていた。『豚肉を少し食べられたら恨はないよ』と言うので、魚の天ぷら持って行ってあげたけど二日後に死んだ」。
Xさんは1970年代に、■■朝鮮高校在学中に一家で咸鏡北道に帰国した。もうとっくに「在日」の帰国のピークは過ぎていたが、体を悪くしていた父が、総連に祖国で温泉治療ができると勧められて帰国船に乗ることを決めたという。
「私は友達と別れることが寂しいぐらいにしか考えていませんでした。到着した清津で配置が決まるまで待機する招待所に、知人探しや荷物受け取りのためにやってきた帰国者たちが、『なんで今頃帰って来たのか? 朝鮮の暮らしが厳しいこと聞かなかったのか? 』と口々に言うんです。
その後も、60年代の帰国者たちから『あんたたち<サイキンキコクシャ>はばかだ。なぜ日本の暮らし捨てて貧しい朝鮮にわざわざ来たのか』と何回言われたことか」。
Xさんは酒飲みで暴力を振るう帰国者の夫と離婚。90年代の混乱の中で子供二人を抱えての暮らしに限界を覚え、99年、日本の親戚に直接支援を請うために中国に一時的に越境することにした。国境を越えるには国境警備隊に賄賂を払い、中国側のブローカーにも金を払って安全を担保しなければならない。
しかしそんな渡河費用を払う金などなく、結局自ら人身売買ブローカーに身を委ね、中国人の男性のもとに「嫁ぐ」ことになった。「逃げ出してまた朝鮮に戻ればいい」と、Xさんは考えていたという。ところが、中国で「転売」されたり、うまく日本に連絡が取れないまま一年が過ぎ、ついに公安に逮捕されて北朝鮮に送還されてしまった。
「取り調べをした保衛部員(秘密警察)は優しい人で、『せっかく中国に出られたのに捕まってどうする。次は失敗せず日本に行け』と言われました」という。
一月ほどで釈放され自由の身になると、Xさんはすぐに中国行を考える。この時の彼女の回想が忘れられない。
「誰か私を買ってくれないだろうかと考え、すぐに越境ブローカーを訪ねました。中国の実情を知ったら、もう貧しい朝鮮では暮らせないんです」
中国から連絡がついた日本の親戚が奔走して、Xさんは10年ほど前に日本入りした。その後、子供二人を脱北させ関東地方で暮らしている。
<サイキンキコクシャ>のXさんは筆者と同世代である。朝高生時代の思い出を尋ねると、ピンクレディーが大人気だったこと、大人ぶって友人と喫茶店に出入りしたことを、懐かしそうに語ったことが印象に残っている。
◆金正恩時代に入っての帰国者
2011年12月に金正日氏が世を去り金正恩時代が始まった。この頃から「帰国一世」が脱北して来ることはほとんどなくなっている。金正恩政権が統制を強化したため中国国境への移動がきわめて難しくなったこと、「帰国一世」が高齢化したことがその理由である。現在日本には約200人の脱北した帰国者がひっそりと暮らしている。最近入国して来た人のほとんどは二世だ。最近では、二世が北朝鮮に残してきた子供たち=三世を連れ出すことに頭を悩ませている。
冒頭で韓国から電話をかけてきた帰国者男性のことに触れたが、筆者にできることなど限られていて、北朝鮮にいる家族に安否を尋ねる手紙を代筆したり、お金や荷物を代わって送ることぐらいである(韓国からは手紙も荷物も送れない)。脱北を手伝うなど不可能だ。
今気になっているのは、日本入りした帰国者たちの将来のことだ。韓国と違って定着支援制度がなく、日本語習得、進学、就職で壁にぶつかる人が多い。60歳以上の大半は生活保護を受けている。手助けする人が必要だが支援者は少なく、帰国者約150人が住む東京では、まったくケアを受けられないまま放置状態の人が多い。北朝鮮の評判の悪さ、ヘイト活動の横行などのため、ほとんどが北朝鮮から来たことを隠して生きている。
帰国事業で北朝鮮に渡った「在日」は9万3000人余り(日本人妻など日本国籍者を含む)。当時の在日人口の6・5人に一人にも及ぶ。彼/彼女らが北の祖国で送った人生も在日朝鮮人史の中に刻まれなければならないはずだが、圧倒的な高い壁に阻まれて、その生はほとんど不可視のまま闇に埋もれて伝わってこない。
帰国者が、北朝鮮でどんな思いで、どのように生き、死んでいったのか、知りたい、光を当てたいと考えて朝中国境に通ってきたが、記録をまとめるには、筆者にはまったく力不足でとん挫したままだ。
日本と韓国に逃れて来た「帰国一世」は合わせて300人程度いると推定している。この人たちの聞き取り調査を「在日」と日本人が、共同・協働のプロジェクトとしてできないものだろうか。帰国者は、半世紀あまり前、日本社会がこぞって背中を押して送り出した人たちなのだから。(了)
付記
取材した帰国者について書いた拙稿に「北のサラムたち」(インフォバーン2002年)、「北朝鮮難民」(講談社新書2002年)がある。テレビ番組としては「北朝鮮に帰ったジュナ」(NHKハイビジョンスペシャル2010年)を制作した。書籍はすでに絶版になっているが、筆者が所属するアジアプレスのウェブサイトで復刻連載を近く開始する予定だ。お読みいただければ幸いだ。ドキュメタンリー番組に関しては、ご連絡をいただければ見ていただける方法をお知らせしたい。osaka@asiapress.org
「遠くにモクモクと黒くて変な形の雲が見えて、あれ、なんだろねと話していました」
広島市に原爆が投下された8月6日の朝、朴永淑(パク・ヨンスク)さんは、疎開していた広島県山県郡で南の空に原爆雲を目にした。それから9日後に日本は敗戦。パクさんが広島市内に戻ると実家は跡形もなくなっていた。兄の妻が爆死していた。原爆投下時、広島市には約5万人の朝鮮人がいたとされる。
原爆きのこ雲を目撃し、身内を失ったパクさんは当時5歳。実は北朝鮮からの脱出者である。原
爆投下から17年後、パクさん一家は在日朝鮮人の帰国事業で北朝鮮に渡ったのだ。
◆在日の帰国事業
1959年から25年間続いた帰国事業では、日本国籍者約7000人を含め9万3000人余りが北朝鮮に渡った。その中には、広島、長崎で被爆した人が推定2000人含まれていた(現在の生存者は50人程だとされる)。
新潟から帰国船に乗った9万3000人は、当時の「在日」人口の実に6.5人に1人に及び、「資本主義国から社会主義国への初の民族大移動」と言われた。しかし、「在日」帰国者たちが、北朝鮮でどんな生を送ったのか、詳しいことはほとんどわからないままだ。
◆逮捕された息子は遺体も見せてくれず
7月8日、脱北して、今は韓国に住むパクさんを大阪に招き、体験を聞く催しを仲間たちと開いた。パクさんの証言を紹介したい。
「朝鮮の慶尚道から広島に来た父は製材所をやっていました。戦後、事業がうまくいかず、弟が高校に行くお金もなかった。朝鮮総連の幹部が家を訪ねてきては、北朝鮮に行ったら勉強できると熱心に進めるので両親が帰国を決意しました。帰ってみたら? 寒いし、配給食料だけでは全然足りないし、服から石鹸まであらゆる物が足りなくて、こんな所で暮らすのかと落ち込みました」
10人兄弟姉妹のうち8人が北朝鮮に渡った。日本に残った兄が、苦労して毎年送ってくれるお金を兄弟で分けて生活した。ところが暮らしが落ち着いた70年代中盤、兄2人が相次いで政治犯として逮捕された。
「一人は通勤途中に連れていかれてそれきりです。なぜ逮捕されたのか、どこに収監されたのか、生死も分からないままです。日本から送金があったので、金を奪うために政治事件をでっち上げたのではないかと思う。同じように標的にされた在日帰国者がたくさんいました」
さらに不幸が続く。80-90年代に息子2人も政治犯として逮捕された。次男は取り調べ中に死んだが、遺体を見ることも引き取ることも許されなかった。そしてパクさん家族は地方の農村に追放され、監視対象となる。90年代後半、北朝鮮では未曽有の社会混乱が起こり、周囲でたくさんの人が餓死するようになった。
「もうここは人が住める社会ではない」
パクさんはそう判断し、日本の知人の助けを得て北朝鮮を脱出した。
彼女のように脱北した帰国者は、東京に約150人、大阪に約50人、韓国には300人程度が暮らしているが、高齢化が進む。「在日」が北朝鮮でどのように生きたのか、記録を残すために、「北朝鮮帰国者の記憶を記録する会」を立ち上げた。日本と韓国で、脱北した帰国者たちに会って詳細な聞き取り作業をするのが目的だ。
1950~60年代、多くの在日朝鮮人が差別と貧困に苦しんだ。朝鮮総連は社会主義の祖国に帰ることを呼びかけ、自民党から共産党までの政党が人道問題だとして帰国を支援した。いわば、日本社会がこぞって9万3000人の背中を押して帰国船に乗せたのである。だが、彼・彼女たちが北朝鮮でどんな生を送ったのか、空白のままだ。
※歴史とは人の記憶と記録の集積である。帰国者たちの記憶を歴史に刻む作業を、在日コリアンと日本人が協働で担っていく計画だ。(連絡先は 1959kikoku@gmail.com)
「在日帰国者は北朝鮮でどう生きたか」 空白の歴史 記憶を記録に
2018.05.15
1959年に始まった在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業で、北の祖国に渡った人たちが、どのような生を送ったのか――。日本と韓国に脱出した元在日帰国者の聞き取り調査に取り組む「北朝鮮帰国の記憶を記録する会」の設立集会が7月上旬、大阪市中央区のエルおおさかで開かれた。集会には、脱北し韓国に住む在日帰国者の女性も招かれ、北朝鮮での生活を証言した。(栗原佳子・新聞うずみ火)
北朝鮮帰国事業は1959年から84年まで25年間にわたって行われ、9万3000人(うち約7000人は日本国籍)が北朝鮮に渡った。当時の「在日」の6.5人のうち1人にあたる。しかし、その人たちの帰国後の暮らしについては詳細な記録はない。
「記録する会」設立を呼びかけたのは、アジアプレス大阪事務所代表の石丸次郎さんや立命館大学教授の文京洙さん、のりこえネット共同代表の辛淑玉さん、映画監督のヤンヨンヒさんら。日本と韓国に脱出した「帰国1世」は約300人いると推計されるが、多くは高齢で、できるだけ早く会って聞き取りをしないと記録を残す機会を逸しかねない。「記録する会」は約50人の聞き取りを進め、最初の帰国船が新潟港を出港して60年になる来年、記録集の刊行を目指すという。
中国と北朝鮮の国境に通い、脱北者数百人の取材を重ねてきた石丸さんは「日本社会は、帰国事業を、貧困や差別にあえいでいた在日朝鮮人が祖国に帰る慶事、いいこととしてこぞって『人道事業』として後押しした。9万3000人は、日本社会が背中を押して送り出した人たち。『在日朝鮮人史』の空白を埋める作業を『在日』と日本人の協働事業でやりたいと思う」と説明した。
この日、北朝鮮での生活について証言したのは広島県出身のパク・ヨンスクさん(79)。99年に脱北するまで約40年にわたって北朝鮮で暮らした。いまは韓国・ソウルで生活している。
パクさんは、先に帰国した両親や兄らを追って、60年代、帰国船に乗った。北朝鮮での厳しい暮らしは漏れ聞いてきていたが、「両親に会いたい一心だった」という。
「帰ったときには、ここで暮らしていけるのだろうかと思った。10年経てばよくなるかと思ったが、10年経っても20年経っても全然変わらなかった」とパクさん。苦しい暮らしをかろうじて支えたのは、日本の親戚からの送金だった。決して多くないお金を、きょうだいで分け合った。
日本からの援助がない帰国者の生活はさらに過酷だったという。
政治犯として逮捕された兄は生死不明。息子2人も逮捕され、生死がわからないままだ。パクさんは「北朝鮮では言いたいことも言えなかった。人間には自由がないといけない」と話した。