私たちは離散家族

朴 順姫

 

生き別れて10年目、家族が日本で再会

 私は、咸鏡北道清津市に住んでいましたが、「苦難の行軍」と言われた90年代後半から2000年の初めまでの食料不足を経験し、このままでは一家が全滅してしまうと考え、98年に中国で食料を得ようと豆満江をわたりましたが、家族が待つ清津市に戻ることはできませんでした。

 私の父は日本人で、在日朝鮮人の母と相応相愛の中で離れがたく「地上の楽園」の宣伝につられて北朝鮮にやってくることになったと聞きました。

 私が食料のために中国に行こうと決心して中朝国境の町・会寧市に住む母親に連絡を取った時には、すでに母親は中国に行ったのですが、消息はつかめず中国で再会をすることができませんでした。再会するまでにさらに7年かかりました。

 家族全員が安全に北朝鮮を脱出するのは不可能で、生き延びることが最優先でしたから生き別れになっても仕方のないことです。2008年になって妹である次女が最後に日本に入国を許可され、私たち三姉妹と母親が一緒になったのです。10年ぶりの再会でした。

 

幼い子供を置いてきた悩みにさいなまれ

 長女の私は、幼い二人の子供を当時、清津市に置いてきたのを思い出しては悩み嘆き、涙も枯れました。でも必ず二人の娘を日本に連れてくると固い決意で、新大久保の韓国食堂で1日13時間の労働に耐えています。

 韓国食堂は労働基準法を遵守する雰囲気はありませんし、長時間労働は当たり前のようです。しまいには疲労のために腕が曲がらないままになってしまい、仕事を休まなければならなくなりました。体を壊さないように気をつけなければならない。

 さもないと娘が日本にたどり着いた時に私が彼らの荷物になってはいけないから、と思うとフラストレーションがたまるばかりです。娘たちを助け出すためにお金を貯めなければならないという強迫観念が襲ってくるのです。

 

中朝国境超えるのは難しい

大金は準備できない

 今、中朝国境を超えるのは大変難しいと聞いています。3代目の若い指導者・金正恩の厳しい命令で北朝鮮側の国境管理が厳しくなったと聞いています。北朝鮮の国境警備兵も賄賂を渡して、中国へ越境させたことが分かって処刑されたという話も聞いています。

 密かに国境をわたるためだけでも1~2万米ドル、もしかして3万米ドルかかると聞いているので、そのような大金は準備できないんです。どうしたらいいのかわかりません。

 日本と北朝鮮がストックホルムで合意して日本人が日本に戻ることができると言っていたのに、北朝鮮側が特別委員会を解散してしまったとも聞きました。

 

私の義母は80歳を超えた

 私の姑は、秋田県の人で80歳を超えていますから脱北する体力はありません。生きて日本に帰る可能性はなくなってしまいました。私は大変悲しい。

 義母には、大変恩義があるのに何もしてやれない。姑は故郷を思い出し、悲しみでつぶれてしまうのでないかと思います。密かに国境をわたることもできないでしょうし、夢も希望も無いのです。絶望の中で生命を終えるのは想像もしたくないです。

 日本に戻りたいのです。でも帰れない。自分の兄弟でも日本では年金暮らしですし、人を助け出すだけの力がありません。親はすでにこの世にいませんから、助けを求めるあてがありません。日本人は日本からの仕送りが無くなったら、飢えて死ぬしかありません。

 仕送りを受けても、人民班の人や国家安全保衛部や人民保安部の人がやってきて分け前にあずかろうとしますから、いくら仕送りしても手元に残らないのです。

 北朝鮮に残留した日本人夫、日本人妻、帰還した在日朝鮮人たちは捨て去られる運命なのでしょうか。人知れず歴史に埋もれていくのでしょうか。言葉がありません。

 

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