【News113】「記録する会」の大阪・東京連続シンポ報告 「記録する会」理事 ソン・ジェオ

◆11月13日 大阪のシンポジウム 

 大阪のシンポジウムでは、キム・ジュソンさん(関西から1970年代に帰国、「飛べない蛙」著者、韓国在住)、榊原洋子さん(1960年代初めに帰国、関西在住)、チョン・ムンジャさん(1940年鳥取県出身。両親と兄弟姉妹ら一族10数人が帰国。「帰らなかった在日家族」の立場から発言)をお招きし、当会理事の合田創、石丸次郎事務局長の司会で進められた。

 

 当日メディアを含め100名を超える参加者で会場が埋められ、「帰国事業」に対する社会の関心の高さを窺い知ることができた。登壇者からは帰国後の生々しい体験談が語られ、参加者は圧倒された。興味深かったのが、初期(1959年~60年代前半)に帰国された方と後半(70年代)以降に帰国された方では、北朝鮮での暮らしに様々な違いが見られたことだ。

 

帰還事業初期に帰国した榊原さんの場合 

 1960年代初めに帰国された榊原洋子さんは、11歳のとき「帰国事業」で両親と3人で北に渡る。脳卒中で寝たきりになった母を抱える日本でのどん底の暮らしの中で、「共和国に行けば病気を無料で治せる」という朝鮮総連の宣伝を信じ、北朝鮮では衣食住に困ることはなく無償で教育を自由に受けることができ職業を選択できるという、まさに「地上の楽園」という政治プロバガンダのもとに祖国を目指した。

 

 だが、配置された山奥の農村は日本にいるときと比較しても、その欠乏は想像を絶する厳しさだったという。配置された農村の家は、日本から持参したわずかな家財を置き、母を寝かせると足の踏み場はなく、約束されていた最小限の医療も受けられなかったという。

 

 食糧配給は月2回あったものの、配給された穀物には白米はほとんどなく、トウモロコシが主だったが、とても人が食するに値しないもので日本では豚や牛の飼料用のものだった。当然、肉や魚など栄養価の高い物は手に入らず「ずっとおなかが空いた状態だった」。

 

 北朝鮮での暮らしを「地獄のよう」と表現し「当時を考えると今でも涙が出そうになる」と胸の内を明かした。努力の末、師範大学まで進むことができたが生活費を工面できず中退した。

 

1970年代に帰国したキムさんの場合 

 徐々に北朝鮮の実態が在日社会に知れ渡ることになり、1963年以降帰国者の数は減り始める。「飛べない蛙」の著者、キム・ジュソンさんと一緒に1970年代に帰国したキムさんの祖父は、現地の生活水準を多少なりとも知っていたようだが、到着した日に「ここまでひどいとは思わなかった」とつぶやいたという。

 

 しかし、70年代に帰国したキム・ジュソンさんは、帰還事業初期に帰国した榊原洋子さんと違って「北朝鮮にいる頃は 意外と日本からの送金とあわせて、日本の映画やドラマのビデオテープや雑誌などは目にすることができた」という。

 

 80年代に入ると、日本から朝鮮総連の各種代表団や商工人たちが北朝鮮を訪問できる機会が増え、禁制品である資本主義的文化の流入は北朝鮮当局が目を光らせていても、それを阻止することはできなかった。

 

 印象に残る言葉がある。「“口”というのは、頭で考えることを発露する器官だが北朝鮮では違います。例えば、指導部批判は当然ご法度なので、それは頭の中にある自分の正直な考えを蓋(ふた)する器官なんです」と言う。

 

 しかし、同じ帰国者同士の友人たちが集うと、当局に隠れて昔懐かしい日本のアニメの話や当時流行っていたフォークソングなどを歌ったり、体制をブラックユーモアで語り合ったりして過ごした。「今だから笑って話せますが、尋常ではない圧制下、精神面のバランスを保てたのはユーモアを失わなかったからでしょう。信頼できる仲間と時々、頭の中を解放することが大切だったんですよ」。

 

 キム・イルソン主席が還暦を迎えた1972年、東京小平にある朝鮮総連の幹部を養成する朝鮮大学校で「忠誠の手紙伝達 青年祝賀団」として、若者200人をまさに「人柱」として北朝鮮に送り出すという許しがたい事があった。それ以降、朝鮮総連幹部や商工人の子弟たちが多く北朝鮮へと帰国している。しかし、不自由な暮らしをしていることは事実だが、日本からの援助や訪問団などのパイプを持つ彼・彼女らは、前出の60年代初頭に帰国した人たちとは違う側面があったようだ。帰国者を二つの世代に分ける目に見えない溝のようなものを感じられた。

 

◆11月17日東京シンポジウム 

 11月17日、東京でのシンポジウムは早稲田大学の構内で行われ、大阪と同様にほぼ会場は埋まった。パネリストとしてリ・チャンソンさん(1941年岡山出身 1962年に単身帰国 韓国在住)、キム・ルンシルさん(1948年福岡出身 1960年に母と姉妹と帰国 韓国在住)、石川 学さん(1958年東京出身 1972年に朝鮮中学在学時に帰国 東京在住)、チョン・ムンジャ さん(1940年鳥取県出身。両親と兄弟姉妹ら一族10数人が帰国)に登壇いただいた。パネリストの聞き手として、当会学術顧問である、パク・ジョンジン津田塾大学教授と当会事務局長の石丸次郎の進行で行われた。

 

人の「死」に不感症だった「苦難の行軍」期 

 リ・チャンソンさんは日本では柔道の選手だった。1964年の東京オリンピックに出場したかったが、在日朝鮮人は日本の代表にはなれない。北に行けば北朝鮮代表になれるかもしれないし、柔道も勉強もタダで腹いっぱい食えると聞いて家族の反対を押して北へ渡った。清津の港に着いて、現地の人の肌が真っ黒なのと、人々の着ている衣類がみすぼらしく、靴も履かずに裸足の人たちが多くいたのに驚き、「地上の楽園」という謳い文句を思い出し絶句した。1週間招待所にいたが飯が臭くてとても食えたものではなかった。女性たちはみんな下痢していた。

 

 1994年7月にキム・イルソン死去した後、キム・ジョンイル体制に移行過程で300万人とも言われる大量の人が餓死した「苦難の行軍」の時期には、街角で餓死する人があまりにも多く、人の「死」に不感症になっていたという。ある日、前からふらふらと自分に近寄る男女がいて、よく見ると旧知の帰国者夫婦だった。自分の目の前で何か言いかけたと思うとそのまま倒れこみ二人はそのまま息を引き取った。その光景がいまだ目に焼き付いて離れない。

 

 キム・ルンシルさん(前述のリ・チャンソンさんの妻)は、「帰国者は現地の人とは付き合わなかった。ちょっと何か言ったら密告するから。だから帰国者だけで寄り添い、日本の歌を歌ったりして故郷を懐かしんだ」そうだ。そのような帰国者の友人たちがまだ北朝鮮にいるが、生死はわかっていない。

 

 石川学さんは朝鮮総連の専従職員であった姉とともに帰国した。朝鮮学校で学び北朝鮮を疑うことなく信じていた姉は、誰もが自由に大学で勉強できるという総連の甘言を信じ、平壌の大学で学ぶことを夢見ていた。帰国直後、招待所で配置先が決められる時「平壌の大学に行きたい」と言うと「22歳の女が大学など行けるわけがないだろう」と一蹴され、それを聞いた姉は口を開けたまましばらく動かなかった。その2年後、姉は精神を患い1991年に亡くなった(北朝鮮では罪人と精神病患者は、公民権はもちろんのこと国民登録からも除外される)。

 

 「苦難の行軍」の頃は、死体が目の前に転がっているのは日常で、特に小さい子供が手にパンを握ったまま笑みを浮かべて死んでいた光景が忘れられないという。

 

◆一般社団法人「『北朝鮮帰国者』の記憶を記録する会」が目指すもの

 「北朝鮮帰国者」と言われる人たちは、日本国籍者6,730人を含む93,340人。この人たちはいったいどのような“生”を送ったのか?それは在日朝鮮人史の中に刻まれるべきものだが詳細な記録はなく、今もそのページは空白のままだ。帰国事業開始から60年が経とうとしている今、在日韓国・朝鮮人と日本人が協働・共同して「在日」が北朝鮮で生きた記憶を残す作業を始めることにしました。2020年末を目標に聞き取り調査と取材を重ね、記録集「在日帰国者は北朝鮮でどう生きたか?(仮題)」の刊行をめざしている。

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